子供たちが『夢』と『希望』の持てる新しい南相馬市を!

南相馬市をあきらめない!

「南相馬市をあきらめない!」
~おたがいさまの気持ちをもって前へ~

                        

南相馬市議会議員
小川 尚一

 東日本大震災と東京電力株式会社福島第一原子力発電所事故による原子力災害から、気がつけば2年の歳月が流れていた。この間、多くの日本国内だけに留まらず、全世界からのご支援を未だに頂いていることに心から感謝と御礼を申し上げたいと思う。

少しずつ復旧は進んでいるが、まだまだ復興には遠く及んでいない。人口も震災前に7万1千人だったのが、漸く4万6千人まで回復した。しかし、依然として1万7千人が全国各地に避難したままであり、約7千人がすでに移転し住所を移してしまっている。震災の津波による死者は636人。その後の避難生活によって亡くなられた震災関連死は、凡そ400人で合わせると1千人を超え、未だに増え続けている。子どもたちは戻りつつあるが、義務教育で6割、高校生で7割、しかし就学前の小さい子どもたちは4割と極めて低い。若い世代や家族が戻ってきていないという状況である。

この全ての原因が、原子力災害にある。福島県が他の被災県と大きく違うのは、大震災と大津波とその後の原子力発電所事故という3重苦、さらに風評被害という4重苦に苛まれているためである。そして、この南相馬市は、当時警戒区域の20kmライン、緊急時避難準備区域の30kmライン、その30km外と3つに区分されて国が勝手に線を引き、勝手にその線をはずしたのだ。私たち南相馬市民は、それによって分断され、平成18年に合併した3市町が、偶然にもそのライン上で分けられ引き裂かれたのである。

 ~一部割愛(「南相馬市の未来は…」を参照ください)~

2011年4月22日、国の指示「屋内退避」を「緊急時非難準備区域」と言い方を変え、同時に隣の飯舘村が全村非難となった。市内の学校は、30km圏外の鹿島区の学校で再開し、小高・原町の子どもたちも一緒に勉強を始めた。子どもたちは、廊下にまで溢れ、体育館をボードで間仕切るだけで隣の声が聞こえてくると言う劣悪な環境での再開だった。原町区(30km圏内)の子どもたちを鹿島区(30km圏外)の学校へ毎日送り迎えするバス8台分だけで1日100万円の予算がかかった。これを国や県には認めてもらえず、半年間続けた。

震災後1ヶ月当時、全てのスーパーが開いていないため、食料品などを職員と一緒に残った市民に配布した時、高齢者の方から「頭が下がります。」と言われ、「いや、困った時はお互い様です。」と素直に答えた。一方で、「今日は、何が貰えるんだ」という人もいて、「貰えるのではなく、無いものを配っています。何が必要ですか?」と聞き返したりした。

6月には最初の仮設住宅が矢張り30km圏外の鹿島区に建設された。さらに県は、借上げ住宅としてアパートや借家についても仮設住宅扱いをするという補助金事業をスタートさせた。

その年の10月1日には、緊急時避難準備区域が解除となり、30km圏内の小中学校も再開した。しかし、子どもの数は5割を切っていた。その前に公共施設の除染も始まっていたが、遠くに避難していればいるほど情報不足のせいか、「帰れるのですか?」という問合せがある。私は、「4万6千人が住んでいます。」と応える。

水道水については、問題なく(震災直後から審査は常にND)、広報でも知らせているが、それでも多くの人が水のペットボトルを購入している。残念ながら地元の人が地元産の野菜を買わない。当然、流通するものは、全て検査してOKが出たものだけである。学校給食や幼稚園、保育園においても放射能測定検査機会が設置され事前に全ての食材の検査がされている。その全てでNDである。それでも不安なのだ。放射能という目に見えない恐怖を拭い去ることが出来ない。

今、除染が進まない。

震災と原子力被害から1年が経過し、2年で400億円の予算を国から確保し、業者も決定したが除染が遅れている。原因は、仮置き場である。南相馬市では全市の除染を進め、空間線量の目標値を自然界のおよそ2倍の年間1msv(ミリシーベルト)と定めた。そのための生活圏全市の除染を2年間で行うとしたが、仮置き場(海岸近くの市有地)近くの住民から反対があり遅れている。「何故、山際の線量の高い除染物を線量の低いところへ持ってくるのか?」と言うのだ。除染した廃棄物は、トンパックに入れ、埋めるのである。実証実験では、埋める前より埋めた後の線量が下がっているというデータもある。それでも、反対なのだ。放射線は、5m以上飛ばないのだから、集めてまとめて埋めて近づかなければ問題ないといってみても、矢張り不安なのである。また、「中間貯蔵施設が決まらなければ、その仮置き場が最終処分場になる」と言う声がある。勿論、国が言う5年以内に中間処理施設を作るよう要求するが、まず地域に仮置き場がなければ除染が始まらない。除染をしなければ、不安で避難した市民が帰らない。人が戻らなければ復旧や復興も遅れるという悪循環になるのである。

私は「正しく怖がる」と言うことと、「おたがいさま」と言うことをお願いしている。科学的根拠に基づいて、危険か危険でないかを判断する。そして、困っている時は誰もがお互い様なのだという気持ちで協力を求める。ここに住む市民がみんなで力を併せなければ、とても復興は進まない。全世界から、全国から支援と協力を頂いてここまで来られたのである。住民がまとまらなければ、汗を流し義援金を届けて下さった方々に申し開きできないと思うのである。

そして、原子力災害は、市民の心さえも目に見えない形で、蝕んでいる。それは賠償である。これだけの被害と苦痛を与え続けているのだから、被害者に対して損害の賠償と補償は当然のことだが、それが続くことで、何時しか勤労意欲さえも失われていくのである。特に農業は、全国的にも高齢化していたが、避難生活に疲れ、農地の除染も進まず、東電の賠償で生活しているのが実態である。米は作らなくなって3年目になる。作っても風評被害で売れないだろう、だから作らず東電から賠償してもらうと、農業再生委員会は今年も作らないとしたのである。私は、検査して放射能が検出されれば流通させないのだから、初めから作らないと決めるのではなく、まず作ってみてはどうかと思うのだ。一部実証実験的に作るとしたが、何故みんなで作ってみようとならないのか、賠償があるからではないかと思えてならないのである。

原子力災害は、働こうとする意欲さえも阻害しているのだ。

確かにこの先、福島第一原子力発電所の廃炉は、これから研究するというのだから、私の生きている間に出来るか疑問である。南相馬市小高区(旧警戒区域)は、昨年4月16日に解除となり1年が過ぎたが、国の責任で行う除染、瓦礫撤去なども遅れており、まだ人が住める状況にない。インフラ整備が完了するのに今後1年以上はかかるだろう。更に除染の問題もあり、どれほどの人が戻ってくるのか予想がつかない。人のいないところでの商店や商店街も成り立たないだろう。

夢や希望を持ってと言われても、原子力災害がそれを阻むのである。私の選挙ポスターで、毎回「夢と希望のもてる南相馬市を!」とキャッチコピーにしてきたのは、その可能性があるからだ。残念ながら今、それを言えないのは将来の見通しが立たないからである。それでも「南相馬をあきらめない。」みんなが力を併せれば、10年かかろうと元の南相馬市にはならないけれど、新しい南相馬市を創れると信じている。

その時までは、まだまだ多くの皆さんの後押しやお世話を頂かなければならないだろうけれど、いつか必ず胸をはって復興しましたと笑顔でお礼の言える日が来ることを信じている。それは、今の子どもたちが大人になった時であっても、今からその土台を一つずつ積み上げて、将来市民みんなが幸せを体感できる南相馬市であれば、私がいなくなっていてもそれでいいと思うのである。

【episode1】

震災と原発事故被害から1ヶ月半ほど過ぎた頃、難民を助ける会というNGOが市役所を訪れ、物資の支援を申し出た。津波や警戒区域のために家があっても戻れなくて着の身着のままで避難された方のために、6月より仮設住宅を建設することとなったが、そこに最低限の日用品を届けたいとの申し出だった。そこで、通常(これまでの被災地支援では)だと、その日用品(まな板、包丁、フライパン、鍋、こたつ、掃除機、食器棚、箒塵取り、風呂桶など19品目)を大型量販店から買い取り直接配送していたのだが、南相馬市の商店街や経済状況を見て是非地元の商店から購入してもらいたいと依頼をした。結果、市内の商店から購入することとなったが、それぞれ取り扱っている業者を集め、出来るだけ公平公正に分配できるよう手配することとなり、行政との連携や商店連合会の役員ということで私が仕切ることとなった。当初は、仮設住宅に避難している避難者だけとしたが、携帯などで連絡を取り合い市外に避難している市民からもうちには届かないなどの苦情があり、福島県内に拡大した。それが全国に避難している市民にまで広がり、結局全国の必要な方だけに送ることとなった。そのため、避難している全市民宛に往復はがきを送り、必要の有無を確認して対応するとことなった。配送に当っては、地元商業者では対応できないため、配送業者と契約して行ったが、遠くは沖縄からも要請があった。

 【episode 2】

震災後2ヶ月位して赤十字社からの義援金配布の話があった。一世帯当たり一律40万円として地震、津波の被災者と原子力災害の被害者に対してだが、あくまでも30km圏内との条件だった。そこで、同じ南相馬市民でありながら30km圏外の市民は、対象にならないのかという問題になり、一つの騒動となった。この騒ぎを按じた市は、市の基金8億円5千万円を取り崩して30km圏外の市民に同じく一世帯40万円の見舞金を配布することとし、喫緊の議会である6月定例会に上程した。この議会で議決されるかどうかということで、傍聴席は満員となった。結果、基金取り崩しは本来ではないとする反対議員もいたが賛成多数で採択された。

しかし、その騒動はそれで治まらなかった。今度は、20km圏内の避難市民が、何故30km圏外で避難しないでいる人に、市からの見舞金が出て、原発事故で家に帰れない20km圏内の市民には見舞金がないのかというのである。更に、20km圏内の避難者は、30圏外の仮設住宅にいることから、住民同士の争いが一時続いた。先にも書いたがこの20km圏内と30km圏外は、合併前はそれぞれ異なる町であったことから、国が勝手に引いた線によって一体化しつつあった合併が引き剥がされてしまうこととなったのだった。

【国際人権ひろば(ヒューライツ大阪)2013年5月掲載より抜粋】
特集 3.11~3年目の南相馬市

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