南相馬の未来は
東日本大震災八ヶ月・地域からの報告
平成23年11月
小川尚一(おがわ・しょういち 福島県南相馬市市議会議員)
「まさか。こんなことが起こるとは!」
夢にも思っていませんでした。
私は、大阪府和泉市の生まれで、二〇歳から東京の学校に行き、デザインを学び就職して5年間は東京で暮らしました。縁あって福島県の原町市(現在の南相馬市)の一人娘と結婚し、4人の子どもを儲け、気がつけばこちらに来て30年が過ぎています。来た当時は、話す言葉もわからず、食べ物もしょっぱくて生活に慣れるのに5年ほどかかりました。
妻の実家は、昔ながらの呉服店で、当時右肩下がりの業種業態でした。そこへ大阪からやって来た私は商売の経験は無いのですが、そこは大阪人の合理主義、無駄なものが嫌いという生粋の性格が頭角を現し、店を改装して呉服屋から総合衣料の店舗にして、仕入れは地方問屋の買い掛け仕入れから大阪船場の現金仕入れに切り替え、現金正札でチラシを撒いていい物を安く売るとお客様が増えはじめました。
そうして、地元では面白そうな奴がいるということになり。商店街や、商工会議所青年部、青年会議所からも声がかかり、会長や役員に祭り上げられ、さらに保育園や学校PTAの役員もやりました。私は、基本的に「来るもの拒まず」「Welcome Trouble」「お役に立つ人になる」をモットーにしているものですから、気がつけば役職を22も持っていた頃がありました。そして、市議会議員にまでさせていただいて12年が立ちました。
地震、津波、原発事故
3月11日
3月11日金曜日午後2時46分。その日は、午前中は市内中学校の卒業式に出席し、午後から議会の一般質問の最中でした。大きな地響きと共に揺れが始まり、その大きさに尋常でないものを感じました。議場は、4階にあり、立っていられない中で、机の上の予算書などの資料は、全部落ち、傍聴に来ていた女性が悲鳴を上げています。あわてて、議場脇の扉を開け、廊下に出て窓の外を見ましたが、終わりかけた地震がさらに大きくなったのを感じて「とうとう来たか」と思ったのです。
考える暇もなく地震がおさまって、すぐに庁舎から飛び出しました。庁舎前の駐車場には多くの市役所職員が集まっていて、しゃがみこむ女子職員や、驚いて涙ぐんでいる人もいます。あわてて役所内のテレビをつけると津波警報が発令されており、6mいや10mになるとの声が上がりますが、6mなど想像もつきません。これも後でわかったのですが、最大15m以上でした。
南相馬市役所は、海岸からは約6km、駅から1.5kmの街の真ん中にあります。私は、津波よりも地震の被害がないか、自宅(市役所から1kmほどの商店街にある)にもどり、家族や店のスタッフを確認し、隣組や行政区の周りを歩いて被害状況を確認して一軒一軒まわりました。家屋の倒壊などはなく、瓦や外壁が崩れたところはありましたが、人命にかかわるものはありませんでした。
再び役所に戻り、情報を収集すると、海岸付近は津波で全滅。避難した人たちのための食料の確保が必要とのことでした。早速、商店街のパン屋さんをあたり、ありったけのパンの提供をお願いして回りました。その頃、海岸から4km付近までは、大変なことになっているとは知る由もありませんでした。
水道が止まり、井戸水の水を風呂に溜め込みました。夜に備えありったけの懐中電灯とろうそく、マッチを準備しました。家に帰っても高校を卒業したばかりの娘は、度重なる余震に震えています。これも後でわかったのですが、次の日の夜が明けるまでの余震の数は、震度3以上が約60回。震度1、2を入れれば数え切れないほど、常に揺れて揺れるたびにビクッとするのです。当然、眠ることはできず、テレビに釘付けでした。幸運なのは、停電がなく電気の復旧が早かったことです。さらに、津波地区を除いて水道とガスも大きな被害はなく、復旧が早かったのは、他地域に比べ恵まれていました。
3月12日
翌日からは、市の災害対策本部会議が開かれるというので出かけました。すでに会議は10回を超えていて、午後4時第13回対策本部会議で、原子力発電所の「爆発」の報告がされますが、後に水素爆発とわかります。この時点で10km圏内市民の外出禁止が出されました。
午後7時、第14回対策会議。避難は、10kmから20kmとなり、南に接する町から避難者が、南相馬市に来て、市内避難所一覧が配布されましたが、公共施設の避難所は、6,000人を超えていました。
3月13日
その後、目に見えない地獄が続きます。
第15回会議は、13日午前5時。第16回会議は、午前8時。第17回は午前10時。第18回は、午後3時。徐々に状況が見えてきます。遺体の数140名。行方不明340名。電話が通じない。間もなく携帯も通じなくなる。無線機がない。ガソリンがない。毛布が届かない。薬がない。
3月14日
そして、14日月曜日、この日から対策本部会議は、朝6時、11時、午後3時、夜7時の4回となりましたが、私は、毎回出席しました。
朝早く妻と娘、義母が山形の長男の所に避難するため向かいました。「後から追いかけてきてね」「早く、必ず来てね」のことばを残して。
そして午前11時の第21回会議で、本部長があいさつを終えるか終えない時、警察官が会議室に駆け込んできました。「屋上で津波を警戒して海を目視していたら、ボンという音が聞こえたので、南の方角を見るとキノコ雲が上がっている」との報告。
会議場は、静まり返り、足が震えます。
「もう終わりだ」本気でそう思った。
本部長の市長は、すぐに事実関係を確認しろと指示を出します。会議は行ったん中止され、正午から再開されましたが、ヨウ素剤の配布をどうするかの議論となり、20歳までに配ることに決めました。
3月15日
翌15日火曜日、朝6時第23回会議では、昨夜2号機爆発の可能性があり、自衛隊が一時100kmに避難避難の指示で動いたとのことでした。動揺が走りました。私は、災害翌日から近くの小学校体育館の避難所の手伝いをしながら、対策会議に毎回出かけていました。午後2時の第25回会議、農協から食料供給がストップしたという報告。会津若松市から2万個のおにぎりを届けるというものの30km圏外に取りに来て欲しいとのこと。他県から南相馬に物資を届けたいと県に連絡すると、30km圏内は入れませんと言われ断念したという報告も。
学校体育館の避難所も始めの2日は、幕の内弁当にデザートの果物まで配っていたのに、仕出し弁当を作る従業員が避難したため提供できなくなり、その後は、1食おにぎり2個、そして3食が2食になりました。それでも避難者は、いただけるだけでありがたいと、騒ぐ人などいません。私のいた小学校体育館の避難所は、津波で家を流された家族がほとんどでした。
災害対策本部長の桜井市長は、「県の兵糧攻めだ」と言って、その後、NHK夜7時のニュースで、市長は住民の代表として全国に非常事態宣言を出しました。その10分後に新潟県知事から「南相馬市民全員を受け入れます」という第一報が入りました。それから続々と避難を受け入れるとの全国の自治体からの要請が入ります。バスを手配して迎えに行くという要請もあります。急遽、避難の計画作りですが、16日~19日でやりきると決めて進められました。
桜井市長と二人きりになった時、瞬時に「もう、メルトダウンしてるよ」「そうだよな」どちらからともなく言いました。市長は「小川さん、逃げた方がいいよ」ぽつんと言いましたが。私は、「最後まで、付き合うから」と笑いにならない笑顔で握手を交わしたのを思い出します。
市長と私は、桜井市長が昨年1月に市長就任する前、同じ会派を組んで行財政改革を訴え続けた仲間であり友人です。最終的に、議員では限界があるとして、昨年の市長改選に名乗りを上げ、二人で政策を作り、厳しい選挙戦でしたが当選を果たしました。そして、いよいよこれからが行革の本丸に切り込むという矢先のこの大震災に、正直、将来よりも今をどうするかという決断を、常にしなければならない状況に立たされたのです。
物資が入らない
未曾有の大震災、史上経験の無い大津波、さらに原子力発電所災害による被災と、これまで行政が毎年行っている防災訓練の遥か上を行く規模の災害に、訓練の成果などほとんど役に立ちません。マスコミ関係者が全員本社命令で避難しました。携帯電話、電話回線が使えない中、無線は限られており、衛星電話が届いたのは10日後でした。新聞は来ない、郵便は届かない、運送業者も入ってこない、銀行は開いていない、大型スーパーはすべて閉まっている。そんな状況が2ヶ月続いたのです。
震災から数日後、市内にはガソリンがなくなりました。何とか地元国会議員と連絡をとり、南相馬市分として大型タンクローリー4台を確保し、日中こちらに向かったのですが、東北自動車道の福島県の最初のSAで、運転手が、この先には行きたくないと言い出しました。ここからまだ2時間近くあります。連絡が入り、急遽、運転手を民間から探したのですが、大型、牽引、危険物取り扱いの3つの免許者が必要なため、時間がかかり運び込んだのは深夜だったこともあります。そのタンクローリーが未だに駐車場の片隅に置かれています。持ち主が、放射能を恐れて返さなくていいと言ったからです。
その頃は、東京に避難してコンビニに車を止めていたら、福島ナンバーを見つけて追い出されたり、学校に編入を申し込んだら、放射能がうつると言われたなどの話が伝わってきていましたし、業者が東京から仙台に行くのに、福島を通りたくないというほどでした。
しかし、私たちはそこに屋内退避といわれ暮らしていたのです。
ガソリンは、1台10リットルの制限に2kmの列が続きます。いざこざが絶えないので、警察官を配置するとその警官と喧嘩する人など、パニックです。
外に出るな、30キロ圏内には入るな
被災した家屋は約6,000棟。避難を余儀なくされている方は、20㎞圏内の1万1000人を含め18,000人になります。
この後、千葉、新潟、長野、東京からもバスを手配して避難民を受け入れていただきました。また市独自で手配したバスで市外に避難された方は、およそ4,400人になります。この人たちは、自分がどこへ連れて行かれるのかわからないまま、前日言われて翌日移動するという具合です。雪のまだ残る山間に7時間かけてというのがほとんどでした。
また、介護施設の職員が避難して、入所者を看る人がいない。病院に看護士がいない。結局、全ての介護施設や病院入院患者を市外、県外に移送しました。残った市民は、1万から1万5千人程度でしょう。その他の市民は、私の家族も入れて車でそれぞれ自主避難しました。繰り返しになりますが、国は屋内退避で外に出るな、県は30km圏内には入れないとしたのですから、さらに続く原発の爆発を知って多くの方は、恐怖におののき避難したのだと思います。
正直、私も怖かったです。できれば家族と一緒に行きたかった。避難した妻や子どもたちから涙ながらのメールが来ます。「早く来て!」「パパ一人の身体じゃないんだから」嬉しかったです。今まで言われたことのない言葉でした。でも、まだまだ避難したくてもできない方、ここで踏ん張るという商店の方、桜井市長は、毎日市長室で寝泊りしていました。当時は、まだまだ寒く雪の日もあり、国の広報では、窓を開けないで、エアコンをかけないでという指示。ストーブとこたつに包まって夜は寝ていました。街はゴーストタウンで、飼い犬が鎖を解かれてうろついています。ゴールデンリトリーバのような大型犬も人懐っこく寄ってきますが、怖くて近寄れません。多くのごみが指定ごみ袋にいれたままで、道路に放置されています。それを破いて漁るカラスの群れは、ヒチコックの映画「鳥」を髣髴とさせます。結局、避難から一時戻ってきていた知り合いの清掃業者の社長に頼み、市役所と繋いで街なかを回り処理してもらいました。
寝食を忘れて働いた市職員
家のガス管が壊れていて、修理をお願いしたら修理をする人がいない。あなたも避難したほうがいいよといわれましたが、電気はあったので電気ポットでお湯を沸かし、洗面器に入れてタオルで身体を拭いて凌ぎました。2週間ほどして業者も戻り、修理して風呂の湯船に浸かった時は、何故か涙が出ました。当たり前のことが、こんなにありがたいものなのか。食べ物は、支援物資の残り物をいただいていましたし、自炊もしました。といってもレトルトばかりですが。パンは賞味期限切れ4日までは、食べられました。手作りのおにぎりをラップで包んだのは賞味期限が明記していないため、たまに腹を壊している職員がいました。当然かもしれませんが、まず避難している市民に物資の食料を配給し、残ったものを職員や私たちに分けていたのです。多くの職員が市役所に寝泊りしていました。もちろん職員の中にも家を流された人、家族を亡くした人もいましたが、懸命に働いていたという印象があります。
しかし、そういった市役所に対する批判、中傷、クレームが相次ぎます。特に被災後一週間から10日ほど過ぎた頃、戻ってくる人が増え始めまたのです。避難先にいられない、親戚を頼って行っても気を使って落ち着かない。という人たちでした。その多くは、もちろん戻れる家がある人たちです。1 ヵ月で3 万人くらいになったでしょうか。
戻った人たちは、以前との生活環境とのギャップに戸惑い、避難している人たちは情報がないと、毎日市役所の電話は鳴りっぱなしです。市の職員でできる範囲にも限度がありますし、まず目の前の瓦礫や遺体捜索、復旧のための状況確認と、市内に残る被災者支援が優先されるのですが、そんなものは見えません。
さらにひどいのは、マスコミでした。すべてのマスコミは、本社指示で30km圏内に入れないので、電話で長々と状況を聞くのです。現場対応で忙しい職員が「現場に来て、自分の目で見てください」と切れる姿を何度も見ました。私は、日中物資配給の手伝い(多いときには2,000人以上の列になる)や、南相馬詣でのように視察に来る国会議員の対応(当然、国の支援要望をお願いする)に毎日追われていました。
避難準備区域は解除
–放射能はなくならない
今、季節は春から夏、さらに秋を向かえ、7 ヵ月が過ぎました。瓦礫と真っ黒な泥で覆われていた海岸線の地域は、撤去もほぼ終え、草で覆われています。漁港から4km離れた国道まで押し流された船の群れは、未だに放置されたままでまるで船の墓場と化しています。あの1個が4トンもするテトラポットが、何百個と田んぼに転がっている姿も、撤去され今はありません。今年の夏は、蛙の声を聞くことはありませんでした。その代わり、不通より大きな蝿が多かったのと、ゴキブリが家の外をうろついているのが不思議でした。
人口は、4万人まで戻りましたが、未だに2万5000人が避難しています。津波災害で亡くなられた方は、663人。音信不通が2,000人以上います。子どもたちは、義務教育6000人のうち2,500人が戻っていますが、小さい子どもとその家族が戻りません。同居していた世帯は、ばらばらになり、数ヶ月避難して仮設住宅に入った人は、初めて「全部自分でしなければならない」と感じたそうです。
何故か、ハローワークに求人を出しても人が来ません。働かない人が増えているように思えます。失業補償、東電の賠償、義援金や支援物資と長期の避難生活が、勤労意欲を萎えさせているようです。
10月1日、30km圏内の緊急時避難準備区域が解除されましたが、何も変わりません。放射線量がなくなったわけではありません。これから10年(それで終わるかどうかは疑問ですが)かけて、しっかりと放射能の除染と除去をしていかなければなりません。どこまで(山や川はどうする)?どこに捨てるの(世界中探しても受け入れるところはありません)?などの課題はありますが、じっとしていては、なくならないのが放射能です。
賠償の問題も10年スパンでしょう。
ご存知でしょうか、常磐自動車道(高速道路)が、この12 月にこの地域まで開通の予定でした。JR の常磐線も地震と津波の被害が大きく、復旧したくとも原発の10km圏内を通るため、進みません。たとえ、復旧したとしても、福島原子力発電所の目と鼻の先を通るこの路線と道路を、誰が利用するでしょうか?今の風評被害を見ても明らかです。そうなると南相馬市は、東に太平洋、南は原発、東は計画避難区域で村民が避難している飯舘村と同様となり、市長は「兵糧攻め」だといいましたが、今は「雪隠攻め」のような陸の孤島になっています。北に伸びる仙台までの常磐道の開通と、常磐線開通が急がれます。
原子力災害という足かせ
–それでも責任を持って進む
重く大きな岩が、未だに頭の上にあるようで、先の見えない将来をぼうっと見ているというのが正直な気持ちでしょう。笑っても心の底からではなく、普通の生活のようで全然不通ではない、楽しんでいても本当ではないという気持ちが見え隠れします。大人の私たちがそうであれば、感受性の強い子どもたちは、なおさら感じているのではないでしょうか。学校での子どもたちは、思った以上に明るく、以前と変わらないように見えるけれど、家に帰ると家族に涙を見せたり、布団で泣いている子どもがいると教師からの報告がありました。
自然災害だけならば、いつの時点かで心を切り替えて、前に進めるのかも知れません。敗戦後の日本のように懸命に復興に向かっていくのでしょうが、残念ながら私たちには原子力災害という重い足かせがあります。私は、原発を許さない。それを作った東電を許さない。安全だといい続けてきた国と県を許すことはできません。
地域における放射能不安、日本中にある放射能差別。これらを克服するためには、正確な情報と、正しい知識と理解が必要です。日本中が、「正しく、怖がる」ことだと思います。
でも、復興には時間がかかりますが、私たち大人が責任をもってやらなければならないと思っています。市民が、国民が心をひとつにし、力を併せて一歩ずつ前に進んでいかなければなりません。 まだまだ問題課題は山積しています。それらをひとつずつ取り除き、前に進んでいきます。ぜひ、その姿を見守り、(できれば「がんばって」ではなく)時には声をかけていただきながら、最後を見届けていただければ幸いだと思います。